最後の審判後の世界

最後の審判後の世界


大賀睦夫

1 最後の審判とは
 スウェーデンボルグによると、最後の審判は、この世ではなく霊界での出来事である。それは天界の一種の整理であり、第一天界にいた一見善人でありながら内面はそうではなかった霊たちが、それぞれ自分にふさわしい地獄に墜ちていくことだという。彼は、1757年に最後の審判を目撃した。それは霊界における出来事なので、地上でただちに変化が起きるわけではないが、人間の内面に変化が起き、それをとおして地上にも影響がある。スウェーデンボルグは、最後の審判によって、人々は天界からの流入を受けることができるようになった、自由意志と理性によって再生されることも可能になったと言う。このように最後の審判は、わたしたちの人生を左右する画期的な出来事だった。

2 最後の審判と近代革命
 現在、わたしはアメリカ建国期の歴史を読み返しているが、「アメリカにおける植民地人の権利と不満に関する宣言」(1765)や「独立宣言」(1776)などの文書を読むと、最後の審判から間もない出来事であり、これらの理念はまさに最後の審判があったからこそ植民地人の間で広まったに違いないと一人うなずいている。「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、その中に生命、自由及び幸福の追求の含まれることを信ずる」。このように独立宣言は高らかに普遍的真理をうたっている。当時の植民地の人々に天界からの光が降り注いだのではないだろうか。
 しかしアメリカがそのまま理想の国になったかというと、もちろんそうではなかった。近代民主主義国家が生まれたものの、非人道的な奴隷制は廃止されなかった。その後、百年近い年月を経て、ようやく奴隷制は廃止されたが、そこから人種差別の歴史が始まった。西部開拓はインディアン迫害の歴史でもあり、一九世紀後半以降は、対外的には、アメリカは多数の植民地を所有する帝国主義国家に変貌していく。最後の審判の後、啓蒙思想に基づいて建国されたもっとも進歩的な国アメリカでさえ、次々に問題が起きて、理想の社会にはならなかったように感じられる。

3 世界は進歩しているか?
 そうなると、最後の審判とはいったい何だったのだろうという素朴な疑問が湧いてくる。最後の審判によって生まれた新天新地とは、天界における教会、地上における教会のことだという。それからすでに250年以上が経過したので、世界はずいぶん良くなったはずだと思いたいが、実際には、なかなかそういかない。依然として貧富の格差は大きく、不満はテロや地域紛争として爆発し、大国間の対話は進まず、世界の軍事費は拡大する一方である。コロナワクチン接種でも南北格差が明らかになった。そんな状況で未来は明るいなどと言えば、ちょっとおめでたい人と思われかねない。
ところが、データで見ると世界はよくなっているのだそうである。たとえば『サピエンス全史』で著名なユバル・ノア・ハラリ氏は、人類は対立・戦い・分裂をくり返しながらも、実は統一に向かって進み続けていると言う。それに気づくかどうかは視点の問題で、鳥瞰的視点でも視野が狭すぎる、宇宙を飛ぶスパイ衛星の視点を採用すべきで、この視点に立てば歴史が統一に向かって進み続けているのは明らかだと主張する。(ハラリ『サピエンス全史』上、2016年、206ページ)
ハラリ氏はこう述べる。「ほとんどの人は、自分がいかに平和な時代に生きているかを実感していない。千年前から生きている人間は一人もいないので、かつて世界が今よりもはるかに暴力的であったことは、あっさり忘れられてしまう。・・・権力が分散していた中世ヨーロッパの王国では、人口10万人当たり、毎年約20~40人が殺害されていた。・・・現在の殺人の世界平均は、人口10万人当たり年間わずか9人で、こうした殺人の多くは、ソマリアやコロンビアのような弱小国で起こっている。中央集権化されたヨーロッパ諸国では、年間の殺人発生率は人口10万人当たり一人だ」。(前掲書、下203―4ページ)
もちろん、より安全な社会、より豊かな社会になったから、人類がそれだけ幸福になったかというと、それはまた別の話である。しかし、データで示されうるものについていえば、世界がよくなっていることは確かなようである。
このテーマについて、インターネットで調べると、ハーバード大学で認知心理学を教えているスティーヴン・ピンカー教授による「世界は良くなっているのか、悪くなっているのか」という興味深い講演の動画があった。日々の暗いニュースによって悲観論に陥っている人々が多いが、データからは人類が進歩していることは明らかであり、その事実を認識することが、より良い未来社会をつくっていくためにも大事なことであると主張している。過去30年を比較すると、寿命、健康、暮らし、繁栄、平和、自由、安全、知識、余暇、幸福感において一大進歩があった。しかし、このような事実はニュースにならないので、十分知られていない。しかし、事実をふまえない理由なき悲観論は、無力感やその反対の過激主義を生み出すので社会にとって危険だと言う。一方、進歩の事実を知ることは、よりよい社会の実現につながる。進歩は魔法ではなく、啓蒙主義の産物であり、理性と科学による問題解決の努力の積み重ねによって生まれたものだと主張する。ピンカー氏は、現代社会が多くの問題を抱えていることを認めた上で、進歩を信じて問題解決の努力を続けることが重要だと説く。
このほかにも、世界は少しずつ着実に進歩しているのだという主張をいろいろと読んで、少し心強く思った。というのは、日々新しいニュースが飛び込んでくるが、良いニュースはまれで、事件・事故・災害・テロなど多くは心が痛むようなものなので、自分自身、知らず知らずのうちに現代社会についての暗いイメージをつくってきたように思う。だから、最後の審判の影響についても、その結果、世界は良くなったのだろうかと疑問に思ってしまうのである。

4 イエス・キリストの支配は永遠に続く
スウェーデンボルグによると、1770年6月19日に、主は12人の弟子を呼び集められ、福音宣教のため、全世界につかわされた。その福音とは、主であり神であるイエス・キリストが支配されること、そしてその王国は永遠に続くというものだった。(『真のキリスト教』791)それは喜ばしいことだが、これまでイエス様が支配されてきた期間に、世界戦争も含め、悲惨な出来事が数えきれないほど起きた。これをどう理解したらよいだろうか。これに満足のいく答えを与えることは困難であるが、そのような悲劇は人間の悪によって引き起こされること、主はそれらの悪と戦う力を与えてくださるということは言えるかもしれない。多くの紛争・戦いを経て、世界はよくなっているとすれば、そこから悪をはるかに上回る善が生まれたということになるのかもしれない。日本の政治では、公文書改ざんの事実を隠蔽するなど、今も不正がたくさん行われているが、大きな視点で見ると、それらも世界が改善に向かう過程におけるノイズのようなものかもしれない。最後の審判以降、世界は確実に進歩していると思う。
世界は良くなっていると言うと、無条件の現状肯定であり、努力など必要ないと言っているかのように響くかもしれないが、もちろんそうではない。ピンカー教授は、理性と科学による問題解決の努力の積み重ねが進歩につながってきたと言う。そして、これはスウェーデンボルグの教えによく似ている。世界が進歩するのは神の摂理によると思うが、神の摂理とは、わたしたちが自由意志で理性的に行動することである。(『神の摂理』71)そして、最後の審判によって天界が整理された結果、人類は理性によって良い社会をつくっていくことが可能になるとスウェーデンボルグは言っているのだと思う。
日々のニュースは良いものが少なく、暗い気持ちになるかもしれないが、人類は困難を克服していく能力をもっているはずだと思いたいし、それには根拠もある。そしてそのように信じて、スウェーデンボルグの教えにしたがって生きていきたいものである。そうすれば、徐々に世界はよくなっていくのではないだろうか。スウェーデンボルグの味わい深い人生訓を記して本稿を閉じたい。

1、神のことばをよく読み、熟考すること。
2、天の配剤に満足すること。
3、正しい行いをするよう気をつけ、良心を清く保つこと。
4、自分の仕事を、誠意をもって果たし、すべてにおいて自分を社会に役立てること。