追悼文鈴木

高橋和夫先生の形見 『転身期のスウェーデンボリ』『超生理学』『創造的宇宙論』


鈴木伊佐男

 本棚から14冊(先生の著書・共著・翻訳・編訳・監修)を取り出し、さまざまな出会いを思い返しました。この中から、A・アクトン著『転身期のスウェーデンボリ』とヒューゴ・オドナー著『スウェデンボルグの超生理学』『スウェーデンボルグの創造的宇宙論』の愛読書三冊(1987、88、92年発行)を選び、あらためて再読して追悼いたします。

1 『スウェデンボルグの超生理学』の「訳者あとがき」から、先生を偲(しの)ぶ
「訳者あとがき」に、信仰者としての高橋先生の核心に触れる文を書いています。

我が国では特に看過され曖昧にされる点であるが、彼の信仰、すなわち内なる神との実存的な交流である。(中略)このことは彼の神学の要(かなめ)であり、これが誤解されるところに、さまざまな奇妙なスウェデンボルグ像が生まれるのである(240頁)。

 さて、先生は著書『スウェーデンボルグの宗教世界(1997年発行)』で宗教の本質を追究し、「スウェーデンボルグの宗教思想も、宗教そのものの深部もまだ十分に捉え切れていないと感じている(298頁)」と披瀝(ひれき)しています。求道者・高橋先生も思い浮かびます。

2 『スウェーデンボルグ創造的宇宙論』の「訳者あとがき」から、先生を偲ぶ
『創造的宇宙論』の「編訳者あとがき」で「こだわり」を直裁に語っています。先生は、「深刻なこだわり」を究明すべく『転身期のスウェーデンボリ』を翻訳しました。

訳者はこの問題に深刻なこだわりをもち続けた(二五七頁)。(中略)多くの人びとは、転身を境にした、その前半生と後半生の思想には連続性や一貫性がない、と考える。しかし、そうは思わない。彼の思索には一貫した連続性があるからである(264頁)。

3 『超生理学』『創造的宇宙論』の本文を読みつつ、先生を想(おも)う
 両著のおかげで、スウェーデンボルグの「啓示の書」を読み砕けるようになったと感謝しています。以下は、理解の導きとなった『超生理学』に記された言葉の一例です。

・「心」と呼ばれるものは、一層発展した霊魂の組織にすぎない。
  ・肉体は、その最も外なる相における霊魂や心であるにすぎない。
  ・霊魂、すなわち人間の「最内奥のもの」は、世界へ生まれる肉体を形成する。
・霊的な心はその実体を霊界の諸実体からのみ引き出して形成するが、自然的な心は霊的な諸実体のみならず自然界の諸実体からも構成される。

『創造的宇宙論』は『神の愛と知恵』を読み砕くのに不可欠です。「無限と有限」を生動するかのように描写し、「霊魂」については次のように生き生きと表現しています。

・霊魂は頭脳の最内奥のものであるだけでなく、肉体全体とあらゆる部位とに存在し、しかも、あらゆる原繊維にぴったりと結びついているのだ。

4 『転身期のスウェーデンボリ』の「訳者あとがき」から、先生を偲ぶ
 先生は、「スウェーデンボリの神秘主義に対してなされる評価」を分類しています。
 第一は、「精神分裂病の所産」。ヤスパースのいう「精神分裂病者」という考え方。
 第二は、「神の啓示」。スウェーデンボリ派または新エルサレム教会が抱く考え方。
 「アクトンはスウェーデンボリの科学や哲学を、その神学思想と不可分の関係にあると主張しているが、そのように考えないで、スウェーデンボリの神学は世俗的な科学や哲学の思想とは全く別次元の啓示に属するとする見方もある」と、先生は書いています。
 第三は、文学者の「ローマン主義や象徴主義の枠内で考えよう」とする考え方。
 第四の「スウェーデンボリを心霊主義者」と見なす見解に対して、先生は辛辣(しんらつ)です。
「心霊主義者であるかのように、ただ興味本位に無批判的に取り扱う風潮」が、「この訳業をあえて完遂しようとする決意を訳者に起こさせた主な理由」と吐露しています。
 僭越ですが、先生もわたくしも、A・アクトンの立場に立つものと考えております。
さて、彼は「神の啓示」を「合理的啓示」と表現します。「合理的啓示は、理性的洞察を超えて信仰によって受容されるものであっても、それは、健全な理性的洞察に対立するものではない(244頁)」。まさに、「Nunc(ヌンク) Licet(リケット) -今や信仰の神秘に知的に入ることが許されている-(『真の基督教508』)」。理解して主イエスを創造主として仰ぎ、意志で悪を罪として避ける霊的生活をし、主と「実存的」に交流する恵みが与えられています。
高橋先生を通した主の導きに感謝しつつ、心よりご冥福をお祈りいたします。