神的人間性と私

神的人間性と私 ~第五福音書を生きる~
                         
高口光男
はじめに

イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(マタイ16・15)

 この問いは二千年前だけでなく、現在に生きる私たち一人ひとりにも問いかけられている。あなたにとって、イエスは何ものなのか、その答えは一人ひとり異なるであろう。新約聖書には、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの四つの福音書がある。各福音書は、イエスの誕生(神の受肉)、十字架の死、復活、聖霊降臨を経験した弟子たちの記録である。復活された主は各自に内在される神となられた。あなたの内に住まわれるイエスとは、あなたにとって何者なのか。あなたはその主と共にどんな人生を歩んだのか。その記録を「第五福音書」と呼ぶことにする。「第五福音書を生きる」とは、自分は、イエスとどのように生きたのかを振り返り、さらに今後の生き方を見直すことである。自分の第五福音書を心の記録として残そうではないか。

1 神からの人間の救いは完成している
二千年前、神がこの地上に降りて来られた。その方を人類はイエスと呼んでいる。神が受肉され、我々の前に姿を現された。イエスの一生は、人類の罪の贖いであった。人類の罪の記録は、各自の肉体のDNAとして伝承されている。主の贖いとは、遺伝悪として刻まれた罪の記録を消し去り、天地創造時の人間の体に戻すことである。これは、地獄的霊との闘争でもある。地獄霊は、人間の遺伝悪に対してだけに働くことができる。主が受肉されたのは、この地獄霊の試練を受け勝利し配下に置くためであり、イエスの一生は、その闘争の連続の人生であった。十字架は最後の闘争であり、復活は、神の体の栄化の完成であった。主の体とは神殿であり、その神殿に全人類(宇宙の他の天体の人類も含む)の霊魂は統治されている。神の似姿として生きている人間の肉体も、実は全人類の神殿である。一人の義人がいれば、主がこの地上に降りて来られる必要はなかった。肉体は全霊魂の土台である。最後の義人が地上に存在しなくなり土台がゆらぎ、全霊魂が存続できなくなった。その土台を堅固なものにするため神は受肉され、その土台を完成された。それが復活された主の生きた体(神的人間性)である。こうして二千年前に神からの人類の救いは完成した。主が人間の内に住まわれ、人間に直接触れ導かれる神となられた。これが、「父と子と聖霊」の名を持たれる神である。人間はただそれを受け取るだけである。

2 神の共働者である人間

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。(ヨハネ15・5)

 主に目を注ぎ、主へチャンネルを合わせることが、信仰であろう。イエスに焦点を合わせ、イエスからの生命の注ぎを受けさえすれば、救われる時代に我々は生きている。主の生命は降り注いでおり、その生命を各自は受け、自分を通路にして、他者に渡すだけである。人間は98%もの毛細血管で生きている。毛細血管の細胞一つひとつが、霊魂と想像されよ。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」とあるように、個々の枝は、共同体であり樹液の通路であり最後には実を結ぶためにある。枝が樹液(聖霊)を流さなければ実を結ぶことができずに枯れてしまう。実は、主の体と私たちの霊魂は、ぶどうの木と枝の関係と同じである。主から注がれる聖霊(樹液)は、罪が通路を塞ぐと流れが止まるし、罪のため通路が破れていれば、恵みがだだ洩れとなり、実を結ばなくなる。これら人間側の罪は、二千年間継続しており、主の恵みの邪魔をしている。この恵みの流れをきれいにすることが、各自の悔い改めであり、執り成しの祈りである。神が用意された実(天上の恵み)は人間の悔い改めと祈りを通して地上に降り実現していく。

3 父と子と聖霊の時代の到来
契約の箱(アーク)は今どこにあるのか。イスラエルの民が最も神聖視した契約の箱(二枚の十戒の石板)である。出エジプト後の四○年間、イスラエルの民の幕屋に置かれ常に民と共にあった。神殿が建設された後には、至聖所に契約の箱が置かれた。その契約の箱は、国の崩壊と共に消えてしまった。ユダヤの民は、その契約の箱を今も探していると聞く。契約の箱が、日本の四国の剣山にあるかもしれないとユダヤのラビが実際に探しにきたらしい。最近、契約の箱は実は各自の中にあるということを照らされた。「自分が契約の箱だったとは」、この発見は私の心の中に湧き出す泉となっている。それについて語りたい。
 人類を変えた二つの「なれかし(はい)」がある。受胎告知の時のマリアの承諾と、ゲッセマネの園のイエスの十字架の承諾のことばである。第一のなれかしは、マリアの処女懐胎時の出来事である。当時処女懐胎は誰も信じられず、姦淫の罪として石打の刑で殺される時代であった。天使から処女懐胎を受け入れるかどうか自由意志を問われたマリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1・38)と命を托しての承諾をした。その後マリアは聖霊によって受胎した。その受胎の瞬間、マリアの胎は至聖所(石板でなく、全能の神の聖なる場所)となった。受肉の神秘である。これが、人間の内に契約の箱が置かれた最初の出来事である。
第二のなれかしは、イエスの十字架前のゲッセマネの園での出来事である。イエスは「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」(マタイ26・42)と、十字架の死を受け入れられた。地獄との最後の闘争である、十字架の苦しみと死の後、イエスは復活された。主の人間性の栄化が完成し、神的な人間性を主は持たれた。この結果、聖霊は見えない父から発し、見える神の栄化された体を通して人間に注がれる時代が来た。神の栄化された人間性は人間に直接触れる存在になられたことを意味する。これが、「父と子と聖霊」の授与であり、神は各自の中に降りて来られた。各自の霊魂が神殿となり、その至聖所には「私は道であり、真理であり、命である」神が住まわれる時代となった。個々の人間が、契約の箱(アーク)になったのである。これは二千年前に起きた出来事であるが、今もそれは変っていない。

はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。(ヨハネ14・12)

教会の中を見ると、女性の力で信仰が保たれているようである。二十世紀は女性の時代なのかもしれない。愛の宣教者会のマザー・テレサ、フォコラーレ運動のキアラ・ルービック、御聖体だけで40~50年生きたテレーズ・ノイマンやマルタ・ロバン、ルアンダ虐殺の中で行き抜いたイマキュレー・イリバギザ、「神のうちの真のいのち」のヴァスーラ・リデン、ヘレン・ケラー、二○世紀に起きたこれらの女性達の活動は、どれも大きな業を伴うものである。これらはカトリックやギリシャ正教のなかで活躍した人たちである。プロテスタントの中にもたくさんおられることであろう。最近知ったアイコ・ホーマン博士も素晴らしい活躍をされている。どの女性も、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」を証明している。

4 主と共に「第五福音書」を生きる
今や契約の箱は人類一人ひとりの中に移行し、個々の人間が契約の箱を持ち運ぶ時代となった。全知全能の神が人間の内におられ、人間が望みさえすれば、聖霊の恵みの中ですべての事が起きるのである。なんという希望であろうか。「第五福音書を生きる」とは、各自が契約の箱であり、その中に生きた主がおられることを証しする人生である。聖霊を内に宿した(聖霊体験の)とき、人間は霊的にイエスを受胎する。人間は幼子イエスの母となり、自分の中の幼子イエスの成長に伴い、神の似姿(神の子)となり、最後は主の花嫁として生きる。この時、命の水がわたしの中から湧き出し、その聖なる水(神の愛、神の光)がわたしの中を流れ、霊を満たすに違いない。
70才になりやっと自分とイエスの関係が見えてきた。最後の人生をどう生きようかと考えている。アイコ・ホーマン博士の人生を最近知り、執り成しの人生を歩んでみたいとの希望も湧いてきた。執り成しとは、自分が主からの聖霊の通路になる生き方である。私を取り巻く意思が三つある、自分の意思、サタンの意思、神の意思、この三つの意思を聖霊に教えていただき識別し、神の御旨を祈ることができたら、生きた神と共に歩む人生を体験できるに違いない。それが、「自分の内に生きた神」がおられる証となるだろう。主への賛美と感謝で人生を締めくくれる気がする。神のみ旨が縦糸、人間の祈りが横糸となり人生の布が織られていく。この素晴らしい人生を味わいながらこの世を去りたいものである。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイ1・23)

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。(ヨハネ6・56)

かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。(ヨハネ14・20)

そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」(黙21・314)
<啓示による黙示録解説882~883>
「神殿」によっては神的真理・神的知恵の方面の主の神的人間性が意味されるが、「幕屋」によっては神的な善・神的な愛の方面の主の神的人間性が意味される。「見よ、神の幕屋が人の間に在る」により、主は今やその神的人間性によって、人のもとに現存されるであろう、が意味されている。「主は彼らとともに住まわれる」により、連結を意味し、かれらは主の中におり、主は彼らの中におられる。
                                                 (完)