書評と補遺

書評と補遺      


 高橋和夫


『秋霖譜―森有礼とその妻』(森本貞子著、東京書籍、2003年刊)

森有礼〝離婚と暗殺〟の真相

廃刀案・国語廃止論・キリスト教解禁案、また「明六雑誌」に載せた男女平等論や自ら実行した契約結婚など、初代文相、森有礼(ありのり)は近代国家建設のために積極的に西洋文明を摂取した。薩摩藩からの留学生として若き日に欧米諸国の力をじかに知ったからである。しかし先見力なのか性急な性格なのか、考えや行動がはやすぎ、しばしば「西洋かぶれ」「明六(あけむ)つの有礼(ゆうれい)」などと皮肉られた。
 有礼は明治22年、帝国憲法発布の朝、自宅で刺され翌日死去。時に満41歳。犯人は黒住教徒、西野文太郎であった。有礼はそのおよそ二年前に、11年間つれそった妻、常と離婚している。この暗殺と離婚の真相は現在まで謎であるか、語ることがタブー視されてきた。本書はこの謎を見事に解き、ごく一部の人びとにしか知られていなかった真相を明るみに出している。千枚の労作である。
 憲法制定と国会開設を求める民権運動は明治13、4年頃に高まりを見せ、政府もこれを無視できなくなった。当時のある印刷物は民権家の名前を相撲番付ふうに列挙している。横綱格の板垣退助を筆頭に、大関格の福沢諭吉ら、小結では「東京 尾崎行雄」らと共に「静岡 広瀬重雄」の名が出ているという。この重雄こそ、有礼の妻、常の実家である広瀬家の養子となった人物である。
 常の父秀雄は旧幕臣で、早く妻を亡くし、子は常とその妹だけだったため、同じ幕臣の藪家から重雄を養子にした。重雄は静岡を拠点に新聞記者として政府の腐敗を批判し、実行教や黒住教の信者達とも協力して運動を展開していたが、明治17年に秩父事件が勃発(ぼっぱつ)。これに衝撃をうけた重雄達は政府転覆(てんぷく)計画を決意し、同年に飯田事件、19年には静岡事件を起こした。密告によって計画は失敗し、彼らは北海道空知の監獄で刑に服した。(「秋霖譜」はここで詠んだ重雄の漢詩に因む)。
 常は有礼に一族の罪が及ばぬように離婚を決意し、自活のため英国に渡り医学を修得。有礼の悲劇は、近代化を急がねばならなかった日本自体の払った犠牲の一つであろう。(『産経新聞』2003年8月17日号)


書評補遺          高橋和夫

最近、15年ぶりに『秋霖譜』を読み直した。書評を書いた時に、書ききれなかったことが多い。以下はその補遺である。

 初代文相、森有礼(1847-89)は、林竹二氏によれば「誤解につつまれた非命の人」である。その誤解の一つ、彼がキリスト者だったかは、林氏の研究書『森有礼』(筑摩書房、1986年)が解いている。慎重な言い方だが、「森がキリスト教に少なくとも一旦は入信したことは動かない事実」(46頁)である。では彼はスウェーデンボルジャンかという問いはどうなのか。これについては本会会員の瀬上正仁氏が『明治のスウェーデンボルグ』(春風社、2001年)で、多くの証拠に基づき「スウェーデンボルグ主義者以外の何者でもなかった」(162頁)と断言している。したがって根本的な誤解ないし謎はほぼ解かれたと言いうる。
 本稿が森本氏の『秋霖譜』に則して取上げるのは、別な誤解である。有礼の「契約結婚」と離婚、および暗殺についてである。なお『秋霖譜』は、著者が20年も資料を丹念に収集整理して小説風に仕上げた、四六判460頁の大著であり、秀逸な研究書である。

 有礼は『明六雑誌』に「妻妾(さいしょう)論」を連載(明治7、8年)。妻妾同居が行なわれ、妾も法律上、同親等とみなされた時代に、欧米の権利・義務観念による、一夫一婦の婚姻観や男女平等論は世間に衝撃を与えた。有礼が持論に基づいて「契約結婚式」を挙げたのは、明治8年2月6日である。有礼27、妻の広瀬常(つね)19歳で、証人は福沢諭吉だった。牧師はいないものの形式はキリスト教会の結婚式に似ており、宴会場に客を招き証人の面前で両人が「契約書」にサインすることから成り立っていた。
 二人の馴れ初めは開拓使女学校においてである。榎本武揚が幕府艦隊を率いて箱館(函館)で官軍への最後の抵抗をしたのは、明治2年だった。この戦争に仙台藩を脱藩した新井奥𨗉も加わったが、榎本らの蝦夷共和国樹立の夢はあえなく散って戊辰戦争が終結。
 数年後、奥羽鎮撫総督参謀、黒田清隆の執成しで赦免された榎本は開拓使(北海道庁)に出任し、やがて明治政府の中で幕臣としては異例な高位を歴任することになる。
 北海道はまだ未開にちかい地で、政府は黒田を中心に開発を進めた。明治5年に、札幌農学校(北大の前身)の母体となった開拓使学校が東京に設立された。同様にその女子部にあたる開拓使女学校も芝の増上寺に開設され、8―15歳の女生徒44名が入学した。その最年長者の一人が、静岡県士族広瀬秀雄の長女、常である。「柔和な目もと、瓜ざね顔の表情に気品の漂う」(89頁)常は開校当初から目立つ存在で、成績もトップだった。
 明治五年にお雇い外国人として来日した鉱床地質学者B・S・ライマン(B.S.Lyman)が、翌年になると学校の近くに住み始めた。彼は北海道の地質調査と鉱物資源開発のために米国から招かれたのである。森有礼外務大丞(だいじょう)はこの頃、米国から帰国したばかりであったが、ライマンを招待する浜離宮内の延遼館で開かれた盛大な宴会に出席した。そこには黒田清隆開拓使次官や女学校生徒も加わり、17歳の常もいた。有礼は27歳、その洗練された洋装姿や英会話は女生徒たちを魅了したという。ライマンはその時三七歳、独身だった。彼を黒田に紹介したのは在米中の有礼である。
 この宴会で見た広瀬常に一目惚れしたのが、他ならぬこのライマンである。日本語もまだよく話せないライマンが黒田次官に「広瀬常を娶りたき願い」を出したために、女学校側は大いに当惑し、黒田は頭をかかえこんでしまった。ライマンの機嫌を損ねるのを恐れた黒田は常を説得した。二十も年齢差のある外国人に嫁ぐこと、しかもそれが半ば命令されていることに常は悩み、結局、退学したいと思うようになった。けれども退学するには多額の退学金が必要であり、今や貧苦にあえぐ旧幕臣の父秀雄が、それを支払うことは不可能であった。悩んだあげく常は家出までしてしまった。いつまでも返事のない学校側の対応にライマンは怒り、黒田も困りはてた。後年明らかになった、ライマンが日本政府に出そうとした(が出さなかった)手紙によれば、彼はこの時黒田の北海道の道路工事の不正にまで言及している。
 手を焼く黒田に一つの妙案が浮かんだ。それは、常には既に婚約者がいるからあきらめてほしいというものであった。ここで旧知の有礼との交渉が始まる。突然の話に有礼は驚いた。『明六雑誌』に契約結婚について連載はしたものの、自分の結婚は現実問題として考えていなかった有礼だが、ライマンの願いを断ることによる開発計画の頓挫も無視できなかった。前述の宴会の時に常を見ていた有礼は、常に好感をもたなかったわけでもなかった。有礼は迷ったが、黒田の説得に、とにかく常の父親に会ってみるということになった。
 何事につけ行動が早い有礼は、翌日広瀬家に向かった。広瀬秀雄は旧旗本で、静岡に一時移住したが、仕事もなく東京に帰って貧しい生活をしていた。妻を早く亡くし、家族は長女の常と10歳離れた次女、福子の3人。彼にとって学費と生活費のすべてが提供される、常の女学校入学は有り難い限りだったのである。ただ退学となると、法外な金額が要求される。それは当時の日本人の平均年収の十数倍と推定されている。有礼に会う時までに秀雄は、常の退学金の遅延願いを出していた。
 有礼は、学校としては常のような優秀な生徒の退学を大変残念に思っている、「推測ですが、もしかして『ライマン氏の件』が退学の理由では…。これも推測ですが、その答が『ノー』なのでは…」と切り出した。この話に父と娘は顔を見合わせ、父がこう語り出したという。「お察しくださるとおり、娘常はその話にはただ号泣するばかり、理由は言わず死んでも承知せぬ、と言い張る始末で」(194頁)。
 このようにして有礼は、多少の嘘も交えて常との付き合いを申し出たのである。常も父親もこの申し出の意外さに驚いたのは言うまでもない。しかし後日、常は父親にこの申し出を受ける旨を伝え、父親も同意することになる。退学金は黒田のはからいで免除となった。ライマンは黒田から常の婚約の話を聞いて不機嫌な表情をあらわにし、ほどなくして帰国。しかし再来日し、北海道の広域にわたる地質を調査し厖大な資料を『北海道全地質総論』にまとめた。帰米して八四歳まで生きた。生涯独身だった。以上が有礼の結婚に至る経緯である。
 森家での常の生活の実態は、鹿児島式封建制度をそのまま踏襲したものだった。何しろ沢山の親類が同居していた。有礼の両親、亡き長兄と四兄の妻と遺児たち、常の家族である。有礼は結婚した年の秋から清国公使として、また明治12年の秋からは英国公使として、文部大臣に任命される明治一八年までのほぼ全期間を海外で過ごしている。すると、明治一九年の離婚までの大半も海外滞在ということになる。特に在英生活中は常と、二人の息子、清と英(ひで)と過ごした。留守宅を守るべく、常の父英雄を執事にした有礼は、ロンドンから、「両親様、広瀬様」と宛名された手紙を書いたが、これは秀雄との親密さを示している。有礼はこの大家族の生計を一人で支えたのである。息子たちの名、「清」と「英」は有礼の仕事先の国名にちなむ。森本氏は「森一家にとってもっとも幸福な時代」であったロンドン滞在中の常夫人の写真を十数年探し続け、ようやく見つけたという。そしてその印象を「張りのある瞳、ととのった鼻と引きしまった口元に気品が漂い、旗本の娘らしい優雅さが感じられる。(抱いている)幼児は年齢から察して二人の次男英だろう」と書いている(119頁)。
 さて、有礼が帰国した頃、藩閥政府は国会開設を求める自由民権運動への対応に苦慮していた。明治14年に国会開設の勅令が出されて以降、漸次衰退したとはいえ、急進派は明治17年に秩父事件や飯田事件、そして19年には静岡事件を起こしたのである。
 紙幅もないので、広瀬秀雄と藪重雄の両者が養子縁組をした経緯は省略する。また、静岡事件の顛末と、それに重雄が絡んだことがわかった時の森家の焦燥や苦悩も省略。
    
 静岡事件に連座した重雄は、26名の容疑者の一人で、「持兇器強盗罪」として「有期徒刑12年」の判決を受け、約10年刑に服し、明治30年に釈放された。この事件の裁判で有礼の意図が働いていることが、森本氏の調査で判明している。有礼は当時の三島通庸(みちつね)警視総監に相談し、この事件を「内々」に済ませてほしいと頼んだのである。本来この事件の犯人は伊藤内閣の転覆を企てた「国事犯」なのだが、三島は強権によってこれを「強盗犯」として起訴したのである。もし国事犯としての裁判となれば、その縁者としての森家の責任を問われかねなかったからである。
 この頃森家には不幸が続いた。現在の明治屋の創業者、磯野計(はかる)に嫁いだ、常の妹の福子は、事件発覚後に長女を産んですぐに急死している。有礼の長女の安はまだ2歳、二人の息子は満10歳と8歳になっていた。この子たちから母が突然去ってしまったらと考えると、常の胸は張り裂けそうになった。森本氏は常の離婚の決意と森家を去る様子をこう描いている。「常はみずからの立場を考え、考え抜いた末に決意をした。愛する子どもたちを『極悪非道な罪人の一族』との非難から、そして森を政治家としての危機から救うためには、方法はひとつしかないように思われた。…常は、実家の父広瀬秀雄に相談し、ようやく、森家を去る決意を告げた。秀雄はしばらく考えた末に言った。『それより、とるべき道はあるまい』と。11月末の夜更け、常は夫の用意した馬車で森邸をあとにした。目立たぬように、との配慮であった。…離婚の日付は明治19年11月28日。森有礼は常との離婚についての新聞報道を、三島を介して新聞社に記事差し止めを命じるよう手配した」(417頁)
 この約二年後に有礼は暗殺されるが、これについては、西野文太郎と重雄とのつながりの一端だけを明らかにしておく。重雄の兄の藪勝(やぶ・すぐる)は旧幕臣の家系で、実行教の熱心な信者であった。その兄の親友に、同信の置塩藤四郎がいた。重雄は静岡で教員をしていた頃、この置塩と知りあった。置塩はその後、伊勢神宮の宮司となり、有礼の「不敬事件」の時もその現場にいた。兄と置塩は政府に対して重雄と同じ反感を抱いていたのである。不敬事件の捏ち上げに置塩も絡んだ可能性がある。西野文太郎の信仰したのは黒住教だが、全国の信者数は当時360万と言われた。また「西の黒住教、東の実行教」とも言われたから、実行教も大勢力を有した。共にその「親神」は伊勢神宮だから、置塩と西野は信仰的につながっているのである。有礼自身は「不敬事件」には沈黙していた。
 離婚した常が有礼の暗殺を知ったのは、事件から一ヵ月ほど経ってからである。常はその時、サンフランシスコのクーパーカレッジ(後のスタンフォード大学医学部)の宿舎の自分の部屋にいた。『東京日日新聞』の同封された一通の手紙は、榎本武揚からのもので、「前略、其後御変り無く医学研修に御励の事と存上候、御驚愕の事と御察申上候が去る2月11日文部大臣森有礼、西野文太郎による斬殺事件発生残念乍森大臣は翌12日逝去…」と書かれてあった。
 榎本は有礼の跡をついで文部大臣に就任したばかりであったが、常の開拓使女学校時代からの知りあいだった。常が森家を出た一ヵ月後、東京の常を榎本が訪ね、こう言ったと森本氏は書いている。「海を渡って外国へのがれるのです。あなたは英語が達者だ。あなたなら、きっと成功する。ひとり立ちするのです。それまでわれら幕臣が支援します」。(13頁)
 明治18年の日本とハワイ政府(ハワイはまだアメリカに併合されてない)との条約で、ハワイは日本へ主として砂糖栽培に従事する定期移民を求めており、榎本には移民にまぎれて常を渡航させることができた。19年の暮、常はまずハワイに渡った。そこからサンフランシスコに渡ってクーパーカレッジに入学したのである。同校を卒業後、さらに医学の研鑽を積むために、英国スコットランドのグラスゴー大学に入った。同大には常の偽名であった「モリ・イガ」の学籍簿が保存され、その住所は常の女学校時代の親友、福島輝の住所となっているという。(14、15頁)
 以上、『秋霖譜』の紹介を兼ねて、それを手引きに「非命の人、森有礼」の多くの誤解ないし謎の一つを解いてきた。これを読んで、今更、常夫人の離婚の原因について「青い目の外人との不倫」という流布したうわさを信じる人はいないと思う。また、常夫人は「結局のところ、森がパートナーの条件とした『真に自立した女性』とはなり得なかった」という意見は誤解であることが判明する。(2018年秋)