『天界の秘義』(Arcana Caelestia)は「創世記」と「出エジプト記」の内的(霊的)意味を開示・解説した著作ですが、その分量は膨大であり読み通すのは一苦労です。そこで『天界の秘義』にはいったい何が書いてあるのか、要旨だけでも手軽に知りたいという方のために著作の概要を紹介してみようと思います。以下、聖書の各章ごとの「ものがたりの概要」、「用語の内的意味」、「聖書のものがたりが語る内的意味」の順で概要を紹介します。
創世記
第一章
ものがたり概要
はじめに神は天と地を創造された。地はうつろで、むなしく、闇が淵のおもてにあった。神は第一日に光と闇を分けられた。第二日に天をつくられ、水を広がりの上の水と下の水に分けられた。第三日に地と海をつくられ、地に青草、種をもつ草、実を結ぶ木をはえさせられた。第四日に太陽と月と星々を造られた。第五日に海獣、魚、鳥を造られた。第六日に地の獣、家畜、地に這うものを造られた。また神は自分のかたちに、自分に似せて人を造られ、男と女に造られた。そして彼らを祝福して言われた。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物を治めよ」。また彼らに種をもつ草、実を結ぶ木を食物として与えられた。地の獣、空の鳥、地を這うものには食物として青草を与えられた。神は造ったすべての物を見られたが、それははなはだ良かった。
用語の内的意味
天地創造の六日間は、人の再生プロセスを表わす。「天」は内部人間、「地」は外部人間である。再生前の外部人間は「うつろで、むなしく、闇」である。「光」は真理、「うつろ」は善の欠如、「むなしい」は真理の欠如。「広がりの上の水」は内部人間の認識、「広がりの下の水」は外部人間の記憶知(scientifica)である。「海」は認識と記憶知の集まり。「青草」「種」は真理、「実」は善である。植物はいのちのない状態を表わす。「太陽」は愛、「月」は信仰、「星々」は信仰の認識である。「クジラ」は知識一般、「魚」は記憶知、「鳥」は合理的なものである。動物は愛と信仰によって生かされている状態を表わす。「地の獣、家畜、地に這うもの」は意志に属するものをさす。「神のかたちに」は霊的人間、「神に似せて」は天的人間である。「人」は主であり、天的人間であり、最古代教会である。「男」は知性、「女」は意志。「生めよ、ふえよ」は善と真理が増大すること。「地を従わせよ」は戦いがあるということ。「種をもつ草」は役立ちのための真理、「実を結ぶ木」は信仰の善である。「地の獣、空の鳥」は自然的人間である。
第一章全体の内的意味
人には内部と外部がある。人は再生する以前、善も真理もなく、貪欲と偽りに漬かっている。再生が始まると、まずある種の善と真理が上にあるのを知る。内部人間は、善と真理は主から来ることを知っている。外部人間は感覚と欲望によって導かれる。外部人間は多くの認識や記憶知をもつようになる。再生が進むと人に善と真理が備わってくるが、それらは主からではなく自分自身から出てくると思っている。さらに再生が進むと、人は愛と信仰により、いのちをもつことができるようになる。愛が点火され、外部人間が光りを受けるようになると、人ははじめて生きるようになる。主よりのいのちをもつ人は多くの善と真理をもつ。人は知性に属する信仰と意志に属する愛に根ざして真理を語り、善を行うようになる。再生がさらに進み霊的人間が生まれ、天的人間が生まれる。人には知性があり、意志がある。両者が一つになると善と真理が増大する。人が霊的になる過程は戦いの過程である。天的人間は天的なものに喜びを感じる。自然的人間にも真理は与えられる。信仰と愛は一つになり、霊的なものと天的なものとの間に結婚が成立する。
第二章
ものがたり概要
神は天地創造後、第七日に休まれた。主なる神が地と天を造られたとき、地には野の木も野の草もはえていなかった。神が地に雨を降らせず土を耕す人もいなかったからである。しかし地から霧が上がって土の全面を潤していた。主なる神は土のちりで人を造り、いのちの息をその鼻に吹き入れられた。人は生きた者になった。主なる神は東の方エデンの園に人を置かれた。また見て快く食べるに良いすべての木を土からはえさせ、園の中央にいのちの木と善悪を知る木をはえさせられた。また一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、そこから分かれて四つの川となった。
主なる神は言われた。「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べるときっと死ぬであろう」。また主なる神は人にふさわしい助け手を造ろうと言われ、野の獣、空の鳥を造られた。しかし人にふさわしい助け手が見つからなかったので、人を眠らせ一つのあばら骨を取って一人の女を造られた。人は言った。「これこそ、ついに私の骨の骨、私の肉の肉。男から取ったものだから、これを妻と名づけよう」。それで人はその父と母を離れて妻と結ばれ、一つの肉となる。人と妻は裸であったが恥ずかしいとは思わなかった。
用語の内的意味
本章では再生により天的人間になった状態が扱われる。「第七日」は天的人間である。天的人間は安息日であり休息なので「主は休まれた」と言われている。「野の木」「野の草」は、外部人間が生み出すすべてである。「地」「野」は外部人間である。「土」は、人が天的人間になったときの外部人間である。「雨」「霧」は平穏静寂を表わす。「土のちりで人を造る」は人の外部人間を指し、それ以前は人ではなかった。だから「土を耕す人もいなかった」と言われている。「いのちの息をその鼻に吹き入れられた」とは、人に信仰と愛のいのちを与えられたという意味である。「園」は理知、「エデン」は愛、「東」は主である。「東の方エデンの園」は天的人間の理知で、その理知は愛を通して主から流れてくるという意味。「木」は感知力、「見て快い木」は真理の感知、「食べるに良い木」は善の感知である。「園の中央」は内部人間の意志の中、「いのちの木」は愛とそれに由来する信仰である。「善悪を知る木」は感覚的なものに依拠した信仰である。「エデンからの川」は愛からくる英知を表わす。
「人にふさわしい助け手」は自我(proprium)を意味する。「あばら骨」はいのちのない自我。「眠り」とは自分で生きていると思う状態。「女」は主によって生かされている自我である。「肉」も生かされた自我である。「男」は内部人間である。「妻」は「男」と結ばれた「女」なので内部人間と結ばれた自我ということになる。「父と母を離れ」とは内部人間を離れるということ。「妻に結ばれ」は外部人間の中に内部人間が存在するということ。「一つの肉になる」は同一の存在になるということである。「裸であるがはずかしいと思わない」は純真無垢を表わす。
第二章全体の内的意味
人は天的人間になった。人が霊的人間である間、外部人間には戦いがある。天的人間になると戦いは終わり、平穏静寂がもたらされる。こうして外部人間に信仰と愛のいのちが与えられ、外部人間もまた生きるようになった。天的人間の理知は、愛を通して主から流れてくる。彼には真理の感知力と善の感知力がある。内部人間の意志の中には、愛とそれに由来する信仰がある。また感覚的なもの、記憶知に依拠した信仰がある。天的人間には愛からくる英知があり理知があった。そこから意志、知性、合理性、知識が流れ出てくる。
最古代教会の人たち(天的人間)は、善と真理を感知力で知っていた。感覚や記憶知によって信仰の神秘を探究することは許されなかった。天的なものが死んでしまうからである。しかし彼らはしだいに人間の自我(proprium)を求めるようになっていった。そして自分自身で生きていると思うようになった。そこで主は、主によって生かされた自我を与えられた。彼らの外部人間には内部人間が存在した。彼らは純真無垢であった。
第三章
ものがたり概要
野の獣のうちでヘビがもっとも狡猾であった。ヘビは女に言った。「園にあるどの木からも取って食べるなと神が言われたのですか」。女はヘビに言った。「園の木の実を食べることは許されていますが、園の中央にある木の実については、これを食べるな、死んではいけないからと神は言われました」。ヘビは女に言った。「あなた方は決して死ぬことはないでしょう。それを食べた日には、あなた方の目が開け、神のように善悪を知る者となることを神は知っておられるのです」。女はその実をとって食べ、また共にいた夫にも与えたので彼も食べた。すると二人の目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、イチジクの葉をつづり合わせて腰に巻いた。
神は言われた。「裸であるのをだれが知らせたのか。食べるなと命じておいた木からあなたは食べたのか」。人は答えた。「あの女が木から取ってくれたので食べました」。エホバなる神は女に言われた。「あなたはなんということしたのです」。女は答えた。「ヘビが私をだましたのです。それでわたしは食べました」。
エホバなる神はヘビに言われた。「おまえはこのことをしたので、もっとも呪われる。おまえは腹で這い歩き、いのちある日々を通し、ちりを食べるであろう」。次に女に言われた。「あなたは苦しんで男の子を生む。あなたは夫に従い、夫はあなたを支配する」。さらに人に言われた。「地はあなたのために呪われ、自分の生涯の日々を大いに苦しんで地から食物を取る」。「土から取られたのだからついには土に帰る」。
神は人を追い出し、東からエデンの園へ向けてケルビムを住まわせ、回るつるぎの炎を置いて、いのちの木の道を守らせられた。
用語の内的意味
本章は最古代教会の第三の状態がテーマである。「ヘビ」は感覚的なものである。「女」は自我である。「園にあるどの木からも取って食べるなとほんとうに神が言われたのですか」は最初の疑いを示す。「園の木の実」は、最古代教会以来啓示された善と真理を意味する。「取って食べてはならない木の実」は、善と信仰の真理を自分に頼って学んではならないということ。「死ぬ」は信仰または英知と理知が失われるということ。「目が開ける」は違った事実が見えてくるという意味である。「男も食べた」は合理性がそれに同意したという意味である。「裸であることがわかった」は、純真無垢の中にいないで悪に漬かっているのを知り認めることである。「イチジク」は自然的善である。「腰に巻く」は恥ずかしいと思うこと。
「エホバなる神の歩まれる音を聞いた」は、彼らが恐れていた命令である。「園の木の間に身を隠す」は自然的善を意味する。
ヘビが「呪われる」は、感覚が天界的なものに背を向け、物質的なものに向かっていくこと。「腹で這い歩く」も同様に物質的・地上的なものを見るということである。「ちりを食べる」も物質的・地上的なものでなければ生きられないということである。「女」はここでは愛する自我により堕落した教会である。「苦しんで男の子を生む」は戦いによって真理が生まれること。「夫」は合理性である。「大いに苦しんで地から食物を取る」は悲惨ないのちの状態をさす。「土から取られたのだからついには土に帰る」は、再生前の外部人間に帰るという意味である。
「人を追い出し」は、善の意志と真理の理解が完全に欠落することである。「東にケルビムを住まわせ」は、信仰の秘義に入れないよう配慮することである。「回る炎のつるぎ」は自我の愛である。「いのちの木の道を守らせられた」は、聖なるものを汚さないための配慮である。
第三章全体の内的意味
最古代教会の人々は感覚的なものに依拠して信仰の神秘について推論するようになった。そして啓示さえ疑うようになった。善と信仰の真理を自分に頼って学び取ってはならない。そうすると信仰または英知と理知が失われてしまうからである。しかし感覚や記憶知に頼る人は、そうすることで自分自身の導き手になれると思うようになった。自我はそれを選び、合理性もそれに同意した。すると内的命令によって、彼らが以前のように純真無垢の中になく、悪の中にあることを知った。そして自然的善で自己弁護した。
人の合理性は、自我すなわち自己愛によって、見て感じなければ何も信じなくなるほど騙された。感覚は天界的なものに背を向け、物質的なものに向かっていく。物質的なもの地上的なもの以外には何も見えなくなり、地獄的になるであろう。堕落した教会は苦労して真理を生み出し、合理性に支配される。合理性が自我に同意することで、外部人間は教会の末期にいたるまでみじめな状態に陥る。外部人間は再生前の外部人間に帰る。ただし神は人が信仰の聖なるものを冒涜しないよう配慮された。
第四章
ものがたり概要
人と妻エバの間にカインが生まれ、また弟アベルが生まれた。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。カインは土の産物をエホバへの供え物とした。アベルは群れのういごと肥えたものをもってきた。エホバはアベルとその供え物を顧みられたが、カインとその供え物は顧みられなかった。カインは怒り顔を伏せた。
カインは畑でアベルを殺した。エホバは言われた。「あなたの弟の血の叫び声が土の中からわたしに向かって叫んでいる。あなたは今、土からの呪いを受ける。あなたが土を耕しても土はあなたに力をさずけない。あなたは地上の放浪者、逃亡者となる」。カインは言った。「わたしを見つける者はだれでもわたしを殺すでしょう」。エホバは言われた。「カインを殺す者はだれでも七倍の報復を受ける」。そしてカインが打ち殺されないよう一つの印をつけられた。カインはエデンの東の方のノドの地に住んだ。カインに多くの子孫が生まれた。
用語の内的意味
「人とその妻エバ」は最古代教会である。「カイン」は愛から切り離された信仰の教義、「アベル」は仁愛すなわち隣人愛である。「弟」は仁愛、「羊を飼う者」は仁愛の善、「土を耕す者」は仁愛の欠如である。「土の産物」は仁愛の欠如した信仰、「供え物」は礼拝である。「群れのういご」は愛、「肥えたもの」は天界的なものを表わす。「怒り」は仁愛が去った状態。「カインがアベルを殺す」は、愛から分離した信仰は仁愛を消滅させるという意味である。「畑」は教義である。「弟の血の叫び」は、仁愛に加えられた暴力である。「呪いを受ける」とは反逆者になること。「土を耕す」は異端説を信奉する、「力をさずけない」は不毛であるという意味である。「地上の放浪者、逃亡者になる」は、真理も善も理解できないことである。「わたしを見つける者はだれでもわたしを殺す」は、すべての悪と偽りが滅ぼしてしまうということである。「七倍の報復」とは涜聖を意味する。「印をつける」は区別することである。「エデンの東の方」は、以前には愛があった理知的精神の傍らという意味である。「ノドの地に住んだ」は、真理と善の外にいることを意味する。
第四章全体の内的意味
最古代教会の中に信仰を愛から切り離した人たちが出てきた。他方、仁愛を行う人たちも出てきた。前者の礼拝は仁愛の欠如した信仰の業であった。後者の礼拝は仁愛と天界的なものに基づくものであった。後者の礼拝が主のみこころに適うものであった。
愛から分離した信仰は仁愛を消滅させた。仁愛に対して加えられた暴力は告発される。愛から分離した信仰は反逆である。不毛であり、真理や善が何かわからなくなる。すべての悪と偽りがその信仰を滅ぼすであろう。ただし愛から切り離された信仰であっても、それを汚すことは涜聖になる。主はその信仰の保全のために、それなりの方法で区別された。愛から分離した信仰は、理知的信仰の傍らに、真理と善の圏外にあった。そして分離した信仰から多くの異端が生まれた。
第五章
ものがたりの概要
人の誕生の書は次のとおりである。神はご自身の似姿に人を造られた。彼らを男と女に創造された。彼らを祝福し、彼らの名を人と名づけられた。
人の子孫の名は次のとおりである。セツ、エノス、カイナン、マハラレル、ヤレド、エノク、メトセラ、ラメク、ノア。ラメクはノアを「エホバの呪われた土から生じるわれわれの仕事と手の骨折りから、われわれを慰めるもの」と呼んだ。ノアはセム、ハム、ヤペテを生んだ。
用語の内的意味
本章は洪水の頃まで増えていった最古代教会の子孫がテーマである。
「セツ」は最古代教会ほど天的ではない古代教会、「エノス」は第三教会、「カイナン」は第四教会、「マハラレル」は第五教会、「ヤレド」は第六教会、「エノク」は第七教会、「メトセラ」は第八教会、「エノク」は第九教会、「ノア」は第十教会である。「エホバの呪われた土から生じるわれわれの仕事と手の骨折りから、われわれを慰めるもの」とは、堕落したものを回復させる教義である。ノアは古代教会と呼ばれる。
第五章全体の内的意味
最古代教会の流れは次のとおりである。最古代教会は霊的になり、天的になった。彼らには信仰と愛の結婚があった。主の力により、彼らは天的人間となった。
最古代教会はしだいに堕落していった。そして第十教会に至って、堕落したものを回復させる教義が生まれた。それは新しい教会で、古代教会と呼ばれる。そこからさらに三つの古代教会が誕生した。
第六章
ものがたり概要
人が地のおもてに増え始め、彼らに娘たちが生まれた。神の子たちは自分の好む娘を妻にめとった。エホバは言われた。「わたしの霊は、ながく人をとがめることはない。彼は肉にすぎないからである。しかし彼の日々は百二十年であろう」。そのころ地にネピリムがいた。これは神の子たちが娘たちに産ませたものである。彼らは強者であり、昔から有名であった。
主は人の悪が地にはびこるのを見られた。主は地上に人を造ったのを悔いて言われた。「わたしが創造した人を土のおもてからぬぐい去ろう」。しかしノアはエホバの目に恵みを得ていた。
ノアは正しく、円満な人であった。ノアは神とともに歩んだ。地は神のみ前に腐敗し、暴虐が地に満ちていた。神はノアに言われた。「わたしは地とともに彼らを滅ぼすことにする。あなたは箱舟を造り、部屋の内外を瀝青で塗りなさい。わたしは地の上に洪水を送って、いのちの息のあるすべての肉を滅ぼす。ただし、わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは息子ら、妻、息子らの妻たちとともに箱舟に入りなさい。
またすべての生き物、すべての肉の中から二つずつを箱舟に入れなさい。それは雄と雌でなければならない」。
ノアは神が命じられたことをすべて果たした。
用語の内的意味
「土のおもて」は教会が存在したところ、「娘」は意志、欲情である。「神の息子たち」は信仰の教義内容である。「エホバの霊がとがめる」は内心の至上命令、「肉」は物質的な人である。「百二十」は信仰の残果である。「ネピリム」は自己過信の結果、聖なるものや真理を無価値にした人のこと。「強者」は自己愛が強いことである。
「主は人の悪が地にはびこるのを見られた」は、善への意志が失われ始めたことである。「主は悔いた」は慈悲を表わす。「主が人をぬぐい去る」は、人々が自分自身で滅びること。
「ノア」は新しい教会である。「エホバの目に恵みを得る」は、人類が救われることの予見である。
「正しい」は仁愛の善を「円満」は仁愛の真理を意味する。「神とともに歩む」は信仰の教義である。「神が彼らを滅ぼす」は、人類は教会もろとも滅びることである。「箱舟」はノア教会を意味する。「部屋」は人間にある意志と知性の二つの部分である。「瀝青で内外を塗る」は欲望の氾濫から守ることである。「洪水」は悪と偽りの氾濫である。「契約を結ぶ」は再生すること。「生き物」は知性に関するもの、「すべての肉」は意志に関するものである。「二つずつを箱舟に入れる」は再生を意味する。「雄」は真理であり、「雌」は善である。
第六章全体の霊的意味
教会の中で欲望が支配的になりはじめた。そして信仰の教義が欲望と結ばれた。人はもはや主に導かれることはない。人は身体的・物質的になったからである。しかしそれでも信仰の残果は存在しなくてはならない。人々は自己過信の結果、聖なるものや真理を無価値なものにしてしまった。また善への意志が失われるようになった。主は、最古代教会の人々が自ら滅びるのを哀れまれた。しかし、主は新しい教会によって人類が救われることを予見された。
ノアと呼ばれる新しい教会には仁愛の善と仁愛の真理があり、信仰の教義があった。人々は自己過信し、汚れた欲望に満ちていた。人類には善への意志は存在しなくなり、教会もろとも滅びるであろう。しかし新しい教会の人々の意志と知性は欲望の氾濫から守られる。最古代教会の人々は悪と偽りの氾濫によって滅びるであろう。しかし新しい教会内の再生する人々は救われる。彼らは知性に関するものと意志に関するものから、すなわち真理と善から再生する。そしてそれは実現した。
第七章
ものがたり概要
エホバはノアに言われた。「すべての清い獣の中から雄と雌を七つずつ取り、清くない獣の中から雄と雌を二つずつ取りなさい。空の鳥の中から雄と雌を七つずつ取って、その種が全地のおもてに生き残るようにしなさい。七日の後、わたしは四十日四十夜、地に雨を降らせて、わたしの造ったすべての生き物を地のおもてからぬぐい去ります」。
洪水が地に起こったとき、ノアは六百歳の子であった。ノアは子らと、妻と、子らの妻たちと共に箱舟に入った。七日の後、洪水が地に起こった。
それはノアの六百歳の二月十七日であり、大いなる淵の源はことごとく破れ天蓋が開いた。雨は四十日四十夜、地に降り注いだ。すべての家畜、すべての地に這うもの、すべての鳥、飛べるものも箱舟に入った。すなわちいのちの息のあるすべての肉は、二つずつ、ノアのもとに来て箱舟に入った。
洪水は四十日の間地上にあった。箱舟は水の表面を漂った。
地の上を這うすべての肉は、鳥も家畜も獣も、地にうごめくすべての這うものも、人もみな滅びた。ただノアと彼といっしょに箱舟にいたものだけが残った。
水は百五十日の間地上に力をふるった。
用語の内的意味
本章のテーマは新しい教会への準備である。「清い獣」は善への情愛、「雄と雌」は善に結ばれている真理、「七」は聖なるもの、「清くない獣」は悪い情愛、「二」は冒涜を意味している。「空の鳥」は知性的なものである。「種」は信仰である。「七日の後」は試練のはじまり、「四十日四十夜」は試練の期間、「雨」は試練」である。「ノアは六百歳の子」はノアの試練の最初の状態である。「六百歳の二月十七日」は試練の第二の状態を意味する。「大いなる淵の源はことごとく破れ」は、意志面での試練が究極に達すること、「天蓋が開く」は、知性面での試練が究極に達することである。「地の上を這うすべての肉は滅びた」は、最古代教会の末裔が消滅したこと、「鳥」は偽りの情愛、「家畜」は欲望、「獣」は快楽、「這うもの」は物質的なものを表わす。「百五十日」は最終点を表わすと同時に出発点を表わす。
第七章全体の内的意味
準備ができている人々には善への情愛があり、善に結ばれた真理があり、それらは聖なるものであった。しかし悪い情愛、悪に結びついた偽りもあった。知的なものについて、善と真理があり、それらは聖なるものであった。またその信仰の真理を受容した。試練がはじまり、試練と荒廃が継続し、人の自我は再生とともに払拭された。ノアと呼ばれる教会の最初の試練は、知性面に関わるものであった。諸真理、諸善、諸善に結ばれた諸真理は試練に対して守られた。試練の第二の状態において、意志面での試練が究極に達し、知性面での試練が究極に達した。試練は継続した。自然的善、感覚的・物質的善、霊的真理、自然的真理は守られた。主から新たないのちを与えられた人、すなわち再生した人は守られた。教会に氾濫した偽りは継続した。再生した人々は主によって守られた。
最古代教会の末裔は消滅した。偽りの情愛、欲望、快楽、物質的なものすべてが消滅した。ただ新しい教会に関わる人々だけが保護された。
最古代教会は終焉を迎え、新しい教会が生まれた。
第八章
ものがたりの概要
神が風を地の上に吹かせられたので水は退いた。百五十日後には水が減った。箱舟は七月十七日にアララテの山上にとどまった。十月一日に山々の頂が現われた。
ノアはカラスを放ったところ、カラスはあちらこちら飛び回った。ノアはまた鳩を放った。鳩は足の裏をとどめる所が見つからなかったので帰ってきた。七日待って再び鳩を放った。鳩はオリーブの葉を口にくわえて帰ってきた。ノアは地から水が退いたのを知った。さらに七日待ってまた鳩を放ったところ帰ってこなかった。六百一歳の一月一日になって地の上の水は涸れた。二月二十七日になって地は全く乾いた。
神が言われたとおり、ノアは息子たち、妻、息子たちの妻たちを連れて箱舟を出た。すべての獣、這うもの、鳥、地の上に這うものも箱舟を出た。
ノアはエホバに祭壇を築いて、清い獣と清い鳥を取って燔祭を祭壇の上にささげた。エホバは心に言われた。「わたしもはや二度と人のゆえに土を呪わない。もう二度とすべての生きたものを滅ぼさない。地の日々のある限り、種まきの時も、刈り入れの時も、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も止むことはないであろう」。
用語の内的意味
本章はノアと呼ばれる新しい教会がテーマである。「神が風を地の上に吹かせられたので水は退いた」は、神が万事をご自分の秩序の下に整えられたということである。「百五十日後には水が減った」は試練が停止したことを意味する。「箱舟はとどまった」は再生、「七月」は聖なるもの、「十七日」は新しいもの、「アララテ山」は光を意味する。「十月」は残果による真理、「十月一日に山々の頂が現われた」はそのとき見え始めた信仰の真理である。
「カラス」は偽り、「あちらこちら飛び回る」は混乱を引き起こすことである。「鳩」は信仰の真理と善を表わす。「鳩は足の裏をとどめるところが見つからない」は、信仰の真理と善が根づかないこと、「ノアのもとに帰ってくる」は、自分自身で善を行い真理を悟ると思うことを意味する。「七日」は聖なるもの、「オリーブ」は仁愛の善、「葉」は真理を表わす。「鳩が帰ってこない」は自由の状態である。「六百一歳」は期間の終わり、「一月一日」は最初の終了時期である。「二月」は再生前のあらゆる状態、「二十七日」は聖なるものを表わす。「地は乾いた」は再生したという意味である。「箱舟を出る」は自由解放を意味する。「ノアと息子たち」は古代教会のメンバーであり、「妻と息子たちの妻たち」は古代教会そのものを指す。「エホバに祭壇を築く」は主の表象的なものである。「二度と人のゆえに土を呪わない」は、人は今後これほど離反することはないを意味し、「二度とすべての生きたものを滅ぼさない」は、人は今後これほど堕落することはないを意味する。「寒さ」は信仰も仁愛もないこと、「暑さ」は信仰と仁愛があることを意味し、「夏も冬も」は意志面について、「昼も夜も」は知的な面について語っている。
第八章全体の内的意味
神は万事をご自分の秩序の下に整えられた。試練は止まった。霊的人間は、聖なる休息である。それは仁愛に由来する新しい知性の光のおかげであった。そして残果による信仰の真理が現われ始めた。しかし偽りはいまだに混乱を引き起こした。教会の人々は信仰の真理と善を受け入れる状態にあった。しかし信仰の真理と善は人々に根づかなかった。善と真理は自分から出てくると思った。再生の第二の状態になって、仁愛の善から出る信仰の真理がわずかに出てきた。障害となっていた偽りが少なくなった。第三の状態になって善と真理の情愛が支配するようになった。最終的に試練が終わって偽りは見えなくなった。すべてが終わって人は再生した。古代教会のメンバーと古代教会は自由になった。古代教会に諸善と諸真理が存在した。古代教会の祭儀が表わすものは、仁愛の善と信仰の真理であった。人は今後これほど離反することはないし、これほど堕落することはない。あらゆる時に教会は実在し、信仰と仁愛がない状態とある状態、仁愛のある状態とない状態、知的に明るい状態と暗い状態が交替するであろう。
第九章
ものがたりの概要
神はノアとその息子たちを祝福して彼らに言われた。「生めよ、殖えよ、地に満ちよ」。
神はノアと息子たちに言われた。「わたしは、あなた方とあなた方の後の子孫と契約を結ぶ」。
神はさらに言われた。「わたしは雲の中にわたしの虹を現す。それはわたしと地との間の契約のしるしになる」。
ノアの息子たち、セム、ハム、ヤペテは箱舟から出てきた。ハムはカナンの父である。全地は彼らから広がった。ノアはぶどう畑を造った。彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕で裸になっていた。ハムは父親が裸であることを兄弟に告げた。セムとヤペテは衣服を取って肩にかけ、後ろ向きに歩み寄って父の裸を覆い、顔をそむけて父の裸を見なかった。ノアは酔いがさめて下の子が彼にしたことを知った。ノアは言った。「カナンは呪われよ。セムの神、エホバは祝されよ。カナンはそのしもべとなれ。神はヤペテを広くし、セムの天幕に住まうであろう。カナンはそのしもべとなれ」。
ノアは洪水後三百五十年生きた。ノアの日々は九百五十歳であった。そして彼は死んだ。
用語の内的意味
「神は祝福して」は主の臨在と恵み、「ノアとその息子たち」は古代教会、「生めよ」仁愛の善、「殖えよ」信仰の真理、「地に満ちよ」は外部人間のことがらを意味する。「契約」は再生であり、再生した人が主と結ばれることである。「雲」は知的な自我、「虹」は霊的なものを意味する。
「セム」は内部教会、「ハム」は腐敗した教会、「ヤペテ」は外部教会を意味する。「カナン」は内部の欠けた外部を守る信心である。「ぶどう畑」は霊的教会を意味する。「ぶどう酒を飲む」は信仰に関する事柄を探究すること、「酔う」は誤りに陥ることを意味する。「裸」は倒錯状態、「天幕」は仁愛から出る信心である。「兄弟に告げる」は嘲笑である。「衣服を取って」は善に解釈する、「肩にかける」は全力を振るう、「後ろ向きに歩み寄る」は誤謬や倒錯には注意を払わない、「父の裸を覆う」は弁護するという意味である。「酔いがさめる」は、よい導きを得て教えられることを意味する。「セムの天幕に住まう」は内的礼拝が外的礼拝の中に存在するという意味である。「三百五十年」「九百五十歳」は、古代教会の継続期間とその状態をさす。
第九章全体の内的意味
主の臨在と恵みにより、古代教会には仁愛の善があり、信仰の真理が増えた。それは外部人間にまでおよんだ。
教会内の再生した霊的人間、教会外の人々にも、主は臨在される。
再生した霊的人間には知的な自我があるが、主はそれに仁愛、慈悲を染み込ませてくださる。
古代教会には内部教会、腐敗した教会、外部教会があった。腐敗した教会から内部の欠けた外部を守る信心が生まれた。すべての教義はそれらの教会から派生した。古代教会は霊的教会であった。古代教会の人々は信仰に関する事柄を探究し、誤りに陥った。彼らは信心において倒錯状態にあった。腐敗した教会は倒錯状態を嘲笑した。内部教会とそれに相応する外部教会は、善に解釈し、誤謬や倒錯に注意を払わず全力で弁護した。古代教会の人々はよい導きを得て、内部から切り離された外的礼拝が結局は嘲笑することを教えられた。内部から切り離された外部は、主に背を向ける。内部から主を礼拝する者にはあらゆる善が与えられる。切り離された外部は教会の中で卑しいものとなる。相応する外部教会は、主に照らされ、内的礼拝が外的礼拝の中に存在するようになる。切り離された外部は教会の中でもっとも卑しいものとなる。初代古代教会の継続期間とその状態。